「サムライとマルタ騎士の鎧」展
姫路城マルタパビリオン、じゃなかった、「サムライとマルタ騎士の鎧」展。
関西万博のマルタパビリオンでは、1862年に日本からの使節団がマルタを訪問した際に贈った鎧兜3領が、マルタ騎士団の甲冑とともに展示されていました。
実はこの鎧兜のうち一領は、姫路城主酒井忠恭のものだった可能性が高く、また姫路の名工明珍家の作らしい、とのことで、これらの甲冑が姫路城で展示されています。
甲冑について、なぜか説明がなく、一つについては説明板らしきものが隠してあったのが残念でした。一緒に展示してあった、マルタの紀元前の遺物などは解説板があったのですが。なぜなのかな。
なお、酒井家ゆかりの可能性がある甲冑はパビリオンで展示されていましたが、他2領は展示されていなかったそうで、なんと今回初展示だそうです。
酒井家は、ちょうど忠恭の時に前橋から姫路に転封となり、以後明治維新まで姫路を支配します。財政悪化に悩む酒井家は、同じ15万石でも姫路のほうが豊かだろうと期待して転封を希望し、実現したようですが、実はその直前に姫路は大旱魃に襲われ、一揆が起き、転封の直後には台風による大被害と散々な状態で、結局酒井家の財政はもっと悪化したとか。
そんな酒井家の財政を立て直した河合道臣(河合寸翁)の話は、姫路の小学生の副読本にも登場しました。いまはどうなのかな。


ガラスの反射で見えにくいのですが、右が酒井氏の鎧のようです。第二次世界大戦で損傷を受け、2023年に京都美術修復センターで修復した際に由来が判明したとのこと。
左はマルタ騎士団の甲冑で、1610年のフランス製とか。

次の2領は一緒に贈られた鎧?


そのほか、マルタで出土した遺物が数点。
座像は新石器時代のもので「太った女性像」「母なる女神」「豊穣の女神」豊かさを表現していると考えられているとのこと。頭部がないのですが差し替え可能な構造で、儀式に使われたのではないかと。
四角い碑文は「マジュマの石」。アラブ支配時代の遺物の一つマルタにおけるアラブ支配時代を代表する重要なイスラム遺物の一つ。亡くなったムスリムの若い女性に対する追悼が刻まれているとのこと。


マルタのキップス。紀元前二世紀の遺物。基台にフェニキア語とギリシャ語の二言語で碑文が刻まれ、フェニキア文字解読においてロゼッタストーン同様の重要性を持つとか。


※解説がほとんどなかったため、展示物の説明については以下のブログを参考にさせていただきました。